2009年4月15日水曜日

成長の尺度

 いかに成長すべきか―

 この問いは人類に課された永遠の課題ともいえる。有史以前に人類が誕生してから絶えず、「今よりもいい状態にする」ための工夫を積み重ねて、2009年の今がある。はたから見れば、恵まれた境遇とはいえず、才能にも恵まれてもいないように見えても、輝いている人がいる。一方、金銭的には何不自由ないはずの人、一つの分野で類稀なる才能に恵まれている人、あるいは見た目もカッコよく多様な才能を持ち合わせている人が、決して幸せそうに見えないこと、は枚挙に暇がない。 この差はおそらく自分はどんな方向に成長していくのか、ということが見えているか否かの差にあると思う。

 成長の尺度を自分で決める。こんな当たり前のことが先行き不透明な21世紀では、ますます問われる。なぜなら、社会で評価される尺度は目まぐるしく変わってしまうからだ。未来は過去の延長線上にあるものではなくなり、よく言われる「不連続の時代」に入った。
 日本でも1990年代初頭にバブルが弾けて以降、信用ある会社の代名詞であった金融機関は次々と姿を消した。金融機関だけでなく、メーカーや小売業を含めて名だたる大企業がいくつも姿を消した。また、史上最高益を更新したことを発表した企業が数か月後に倒産する。それまでは信用の証であった「上場」や「業歴」「決算」といったものが、それだけでは信用の証とならなくなったのである。同じようなことは世界中に起こっている。
 こうした時に大切になるのは、過去の実績ではなく、今直面している世の中を自分なりに分析をし、未来の青写真を自分なりに定義することである。

 親に言われたから、みんなが行くから、周りから褒められるから、高校や大学に進学する、「いい企業」に入る、将来食いっぱぐれの無いように資格を取得する。こうしたこと自体が悪いわけではない。だが、重要なのは動機である。「何のために」という自分の尺度を持って自分の行動を決める。言うまでもなく、その結果は誰も責任を取ってくれない。あくまでも自己責任である。けれども、周りの尺度を鵜呑みにしたとしても、その結果は誰も保証してくれるものではない。しかもそれがうまくいく確率は、今後下がる一途をたどっていくことになろう。

 人から与えられた「出来合いの尺度」を追求することは、過去の延長線上に未来を位置づけることと同じである。そしてその考え方では21世紀を楽しく過ごすことはできない。不連続な成長ステージに入った今、自分の価値観を持ち、自分が追求すべき尺度を確立することが大切である。

2009年4月1日水曜日

人生は積分(微分ではない)

 少にして学べば、壮にして為すあり。
 壮にして学べば、老いて衰えず。
 老いて学べば、死して朽ちず。(佐藤一斎『言志四録』)

 昨今、サブプライムローンに端を発する金融危機の影響で不景気だと騒がれているが、教育業界は元気がいい。

 東京都の中学受験率は70%を超えたと言われる。大学全入時代到来と騒がれながらも、国公立やトップ私大における競争は激化の一途をたどっている。「社会に出る前のモラトリアム」と揶揄された大学でも、入学当初から就職活動を念頭に置き、留学をしたり、企業のインターンに参加したり、資格取得に向けた勉強をする学生も多く、ただ遊んでただ飲むだけというこれまでの「大学生」のイメージも覆されつつある。また、社会人も、自分自身のスキルアップに余念がなく、資格取得をサポートする専門学校も隆盛を極めている。こうした動きを受け、大学側も、ここ数年でビジネススクールやロースクールを相次いで開校し、社会人にターゲットを絞ったカリキュラムを強化しているところが多い。
 このように、多くの人が自分の意思で「学ぶ」ことに取り組み始めたことは悪いことではない。冒頭の言葉を待たずとも、学ぶことは人間が豊かに活きるための根源だからだ。

 しかし、瞬間風速を高めることには余念がなくとも、死ぬまでに自分が出せる価値を最大化する、という観点で学んでいる人は多くないように見える。そして、学びのベクトルも、自らの幸せのためと言うよりも、世の中の評価を高めるため、に見えることが多い。 ある特定の分野に関する知識やスキルを、短期間で習得しようとするその姿勢は「微分的学び」と言ってもいい。

 学ぶには自分を知ることが不可欠である。病気にならない体を作りたい人が、プロのスポーツ選手と同じトレーニングを始めても体を壊すだけである。目標を定め、今の自分の力量を知り、その上で自分に合った向上策を考えていく。この姿勢なき学びは、自分の豊かさにつながらない。

 ライブドアや昨今破綻あるいは危機に陥っている投資銀行。いずれも、時代の寵児とはやされ、世の中の最先端を走る人たちの代名詞のような扱いを受けていた時期もあった。しかしながら、「利益」や「成長率」という単純な指標の最大化のみに邁進し、彼らは自分たちが目指す方向を見誤った。また、ある意味社会情勢を「楽観的」に捉えるあまり、自分たちのすべきことも見誤った。
 世の中からの評価ではなく自らの幸せのために、人との比較ではなく自分の尺度で、強迫観念ではなく自分のペースで学び続ける。こうした「積分的学び」こそが人生を豊かにするためのものである。

 老いても学び続けるために。人生は微分でなく、積分である。