2012年4月27日金曜日

守・破・離

イノベーションは、多くの経営者が最も頭を悩ませていることの一つであろう。
イノベーションという言葉が今のような意味で用いられるようになったのは、20世紀初頭、オーストリアの経済学者シュンペーターが「物事の新しい切り口を創造する行為」として定義したことに始まる。日本では技術革新、と訳されることも多いが、市場開拓・創造、経営革新、組織刷新など「革新」を伴うものを指す言葉として広く使われている。特にビジネスの世界では、この言葉を聞かない日はないくらいである。
企業が成長する上で、或いは存続していく上で、イノベーションは重要なカギである。特に、ITやWebの世界ではイノベーションの成否が企業の評価に大きく影響する。PCの普及とともに時価総額トップの座にも上り詰めたマイクロソフトは今やAppleやGoogleに時代の先兵としての地位を明け渡したように見える。また、一時代を築いたソニー、任天堂にもかつての輝きはない。また、今は好調が伝えられるAppleやGoogle、Fasebookだって10年後に同じように評価されているかは分からない。組織としてイノベーションを続けることは難しいのだ。
芸の道に「守・破・離」という言葉がある。上達のために「定石」とも言うべき基本的なルールや動作をしっかりと身につける。これが「守」だ。次に、その基本的なルールを踏まえながら自分なりのアレンジを加えていく。これが「破」だ。そして最後が、意識しないレベルまで基本動作を身体に刷り込ませ、自分の形を創り上げる「離」だ。こうしてその世界で新機軸を打ちたてて、初めて一流と認められる。
これは「新しい切り口を創造する行為」そのものと言える。実際にはこの3つを行きつ戻りつしながら、自分の芸を高めていくことが多いのだろうが、形を覚え、形を破り、形から離れ、そして時に形に立ち返る。我々が今もがきながら日々探している「イノベーションのやり方」を、こんなシンプルな言葉で表現してしまう古の人はつくづくすごい。
このようなことを考えるにつけ、企業経営はアートである、と改めて思う。

即戦力の条件

2013年度の就活戦線も佳境に入ってきた。新卒採用でも即戦力重視の傾向が高まっているらしい。人口が減少し始め、ますます海外に活路を見出さなければならなくなっている日本企業の環境を考えると、自然な流れに思える。

けれども、即戦力の意味には少し誤解があるように思える。「すぐに社会人と同じように仕事が出来ること」―多くの会社の真意はきっとそこにはない。

そんなことを多くの会社は期待してはいないし、期待していたとしたらそれは相当な人気企業で世界中の候補者から、1000人に1人の人を選りすぐれるようなごく一部の会社である。そうでなければ、私達には人材を育てる余裕も器も意思もありませんが、専門性を身に付けてくれていたら多少給料をはずみますよ、と言うような会社だ。人の価値観はそれぞれだから、最初の会社に求めるモノも人によって色々あっていいのだけれど、この辺に考えをめぐらせずに企業を選択すると間違った判断をする。

「即戦力」の指標としてよく挙げられるのは、英語や会計・法律・ITなどの専門分野に関する知識などだが、それはほんの一面的な指標に過ぎない。TOEIC800点以上、会計士の資格を持っている、法律の知識がある、ITに詳しい、そういうことだけを求めているなら高校も大学も行かずに中学卒業後すぐに専門学校に通っていた人ばかりを採っているはずである。しかし現実はそうではない。もちろん「スキル」はあるに越したことはないからこれを機に勉強すること自体は無駄ではないし、その努力のプロセスは。けれども、「スキルは持っているが思考のない人」は、「スキルがない人」よりも実はタチが悪かったりする。自分の真価を誤解していることが多いからだ。

「すぐに役に立つものはすぐに役に立たなくなる」―慶應義塾の中興の祖、小泉信三は言った。今必要と言われているからやるのではなく、何が必要かを自分の頭でとことん考える力を磨きたい。きっとこの力が、時空を超えて「即戦力」になるための条件である。

2011年6月1日水曜日

いとしさと、切なさと、心強さと-組織人編

経営者の最も大切な仕事の一つは「組織を創ること」である。いい人を集め、その人を伸ばし、出来るだけ長くその組織に残りたいと思って貰える環境を作る。これは基本的にはとても前向きな仕事だ。しかし組織を取り巻く環境が変わったり、目指すものが変わったりすると、時に「後ろ向き」な作業を伴う。
JALや東京電力を例に挙げるまでもなく、経営状態の悪化をきっかけとして組織と体制の変革に踏み切る大企業も少なくないし、危機でなくとも組織を大きく見直すことは既に驚くべきことではない。こうした動きを米国流の合理主義が浸透してきた結果、仕方のないことと捉えることもできる。けれどもその裏側はそんな単純ではない。

経営者も人間である。誰だって嫌われたくない。この人ならと思って採用した人、黎明期から一緒に組織を作ってきた人、そして時に良き友人でもある人に、生活の前提を変えかねないことを伝えることは、大きな勇気と覚悟が必要だ。どれほどの時間をかけて伝える言葉を選び、「てにをは」に至るまで細心の注意を払ったことだろう。そしてその過程で感じたであろう様々な気持ち、それを仲間に伝える瞬間の胸の痛みはどれほどのものであろう。

一方、伝えられる側の痛みは言うまでもなく大きい。青天の霹靂に呆然となる人、感情を抑えきれずに対話の席についた経営陣をののしる人。自分のキャリアプランが狂ってしまったことに焦りを感じる人。家族の生活を守れなくなるかもしれないことに言いようのない不安を感じる人。その組織の中で一生懸命やってきた人であればあるほど、その傷は深い。また残る人にとっても、仲間を失うことによる喪失感は大きい。

辛い気持ちを振りきってまっすぐ前を見つめて伝える人がいる。ことここに及んでも会社や経営者に思いをはせ、自分との折り合いをつけ、前に進もうとする人がいる。体制の見直し、人員削減、リストラ-。文字にすればこんな短い、無機質な単語になってしまうこうした言葉だが、その裏側には伝える側と伝えられる側の色々な感情が内包されているのだ。

多くの恋愛がそうであるように、当事者でなければ愛の大きさなんて分からない。はたから見ればドライに見える仕打ちも、多くの場合その決断に至る経緯は見えない。また、普段は忠誠心を感じさせない振舞いをしていても、その人の胸の中までは見えない。そしてその「本当の部分」は愛が深いほど切ない。人が機能で結び付いたものが組織だが、本当の組織はそれだけではない、厳しくもあったかくて毛深くてゴワゴワしたものを持っている。

いとしさと切なさと心強さ。俺達洋々も、力を貸してくれる人たちがこうした感情を持てる組織を創りたい。

前へ。親愛なる全ての人に。

2011年5月11日水曜日

青春の詩

 さて青春とは一体何だろう

 その答えは人それぞれで違うだろう

 ただ一つ、これだけは言えるだろう

 僕たちは大人より時間が多い

 大人たちがあと30年生きるなら

 僕たちはあと50年生きるだろう

 この貴重なひとときを僕たちは

 何かをしないではいられない

 この貴重なひとときを僕たちは

 青春と呼んでもいいだろう

 青春は二度とは帰ってこない

 皆さん青春を…

 今このひとときも、僕の青春

(よしだたくろう 「青春の詩」)

今や正面切って口にされることも減ったこの「青春」。青春を語ること自体が青春じゃない、と笑われるのは分かっているけれど、ここ数年、私はまさに「青春まっただ中」にいる若者たちと沢山出会った。

自分なりの方法で、意気揚々と人と建物の関係の本質を見つけようとしている建築家のタマゴ。恋い焦がれた大学への夢破れても、違う場所で一生懸命自分の居場所を探している若者。何はなくとも、女子ながらに単身被災地に乗り込んでいった大学生。柔道エリートを多く輩出する大学への進学を約束されながら、敢えて決して柔道が強いとは言えない大学を選び、「俺流」のやり方でオリンピック出場を目指す100キロ超級の若き柔道家。10代の記憶を半分失い、もがきながらも自分の道を見つけ、超氷河期と言われるこの時に意中の企業への就職を早々に決めた女子。見た目は今どきのGALで、はたからはその場の楽しさを追い求めているように見えているけど、本当は冷静に自分を見つめ、普通の人以上に迷い、自分が一番しっかり立てる場所を見つけようとしている女子大生。周囲の大反対を振り切って、何度フラれてもどうしても行きたい大学へのチャレンジを辞めないアスリート…。

夢を追い求める、逆境に立ち向かう、弱い自分と向き合う―。挑戦の仕方はそれぞれ違う。大人から見たらなんと不器用なことをやってるんだと思うこともある。それは違うっしょ、と口出ししたくなることもある。けれども、彼らはしたり顔で能書きをタレて諦めることなんてない。「何かをしないではいられない」彼らの必死でまっすぐなまなざし、自分で限界を決めることなく挑戦する姿は、形は違ってもいつも私の胸をアツくしてくれる。勇気をくれる。

自分なりの必死さで今を何とかしようとする姿勢、それが青春の本質なのかもしれない。吉田拓郎が「青春の詩」を歌った1970年から、日本人の平均寿命は10歳のび、その分私たちに許された青春も延びた。

だから。

せっかくだで青春しようぜ、オッサンもオバサンも!!

No impression, no life.

震災から2カ月。新しい日本を創るのは、俺たち全員の挑戦だ。

2011年5月9日月曜日

「ホリエモン事件」の向こう側

休前、ホリエモンこと堀江貴文氏の実刑が決まった。彼を好きかということや彼がやったこと法律上の是非はともかく、少なくとも一時は起業家の先兵として時代の脚光を浴びた人だけに、同世代の人間として寂しさを感じる部分はある。

一方で、過剰なまでに彼を神格化する一部の人たちの姿勢や、「盾突いたものを排除するための旧勢力による陰謀に過ぎない」などといった短絡的な主張には強い違和感を覚える。

彼が買収しようとしたニッポン放送やフジサンケイグループ。新球団創設の際に強固に反対した既存球団のオーナーたち。多かれ少なかれ株主の意向に配慮しなければならず、しかも資金力のある人なら誰でも自分のオーナーになる可能性のある形態に、中立性を求められるマスコミが自ら進んでなったことには、素人考えでも疑問を抱く。また、彼らの報道が「正義」の名のもとの独善に見えることも少なくない。だから私は、彼が敵に回したとされるこうした勢力の肩を持つつもりはない。けれどもホリエモンの肩も持てない。

当時の彼が見誤った最大のポイントは、社会を作っているものは人間であるということだったのかもしれない。社会には私たち凡人の目から見てもなんとも不合理で不条理に見えることもある位だから、先人たちが築いたものが彼にはもっとバカバカしいことに見えただろう。しかし、どんな世界でも、その世界に生きてきた人たちには、自分がその世界を守り、築いてきた気概がある。それを顧みることなく、また顧みていたとしても尊重されたと感じることがなければ、いくら正論であったとしても人はその人の言うことに「Yes」と言いたくなくなる。残念ながら、ホリエモンは少なくとも敬意を払っていることを感じさせられなかったのだろう。これまでの体制や価値観に対する不遜とも言える態度が彼の足もとをすくった。

日本の金融の大変革期に微力ながらその変革の一端を担う立場にあった者として言えるのは、どんなに不合理に見えることであっても、それには必ず存在する合理的な理由がある、ということ。そして、その理由を腹の底から共有し、その背景に対する敬意なくして「改革」は進まない。そして「抵抗勢力」からも協力が得られて初めて、その改革は成ったと言える。

私はホリエモンのチャレンジ自体が否定されたとは思わない。むしろ、彼のチャレンジ精神は若者を初めとして多くの人に支持され、実刑判決が下ってもなお、彼はいまだにプラスの意味で社会的に大きな影響力を保っている。そしてこれからもきっと何らかの形で、新しい時代を創る作業に関わってくれると信じている。

俺たち洋々も、引き続きもっといい世界を創っていくことに貢献したい。そしてその時には「これまで」を作ってくれた先人への敬意を忘れずにいたい。もちろん、ホリエモンにも。

2010年11月2日火曜日

「所得格差が教育格差の原因」は本当か

所得格差が教育格差の原因、と言われ始めて久しい。「子供の大学進学状況は、親の年収1,000万円以上と以下

で有意な差がある」というデータを引き合いに出して、政治家が社会問題として取りあげることも多くなった。

しかし、「お金」を教育における最重要論点に据える姿勢には強い違和感を覚える。

確かに、教育の多くの機能がお金で買えるようになった今、お金が沢山あれば選べるものは増える。また、経済

的事情で進学を諦めなければならない子供がいるのも事実だ。けれども、お金がないといい教育を受けさせられ

ない、と考えるのは短絡的だ。

公文、しまじろう、ECC、日能研、四谷大塚…。小学生以下に絞ってもお金を出して学ぶ場は山のようにある。

都市部では中高一貫の私立校の人気は相変わらず高いし、海外のボーディングスクールに留学する中高生も増え

ていると聞く。しかしこれらは全て手段にすぎない。「どんな人間として世に送り出したいか」というヴィジョ

ンと、「子供と『自分なりの精一杯』で向き合う」という覚悟なしに、どんな手を打ったところでむなしい。

もし「教育格差」なるものが存在するとするなら、それは親の子育てへの本気度の差によるものであろう。決し

て所得ではない。本気度に比べたらやり方の違いなんてどうだっていい。子供と真剣に向き合い、世の中を見つ

め、必要なことを見極め、適切だと信じるやり方で施す…。お金がなくても、時間がなくても、育む人が必死で

考え、精一杯やった結果であればそれがどんな形であろうとも、きっと子供には伝わる。子供の成長に最適な教

材や方法論は、親子の本気の対話の中にしかない。

お金がないことなんて言い訳にならない。大切なのは、「何をさせるか」ではなく「どんな人として育みたいか

」だ。そして、自分の導きが、ともすれば子供の将来を大きく変えることになるという重圧と闘いながら、本気

で子供と向き合い、信じる道を親なりの精一杯でやりぬくという覚悟だ。

お金を出せば様々な教育が受けられる時だからこそ、お金を出しても買えない教育に光を当てたい。自分のやり

方が正しいか、他の人と違うのではないかといたずらに不安がるのではなく、子供を全力で抱きしめることを大

切にしたい。「しまじろう」がいなかった30年前、親達が自分たちにやってくれたように。

次世代の若者を育む立場にある者として、私はこれを常に意識していたい。

2009年11月17日火曜日

俺たちの「クリスマス・キャロル」

 「あの時もっと勉強しておけば…」「あの時もっと全力でぶつかっていたら…」「あの時告白していれば…」「もう少し若かったら留学したのに…」。こうした後悔をした経験は誰しもあるだろう。

 しかし、多くの人が気づいているように、こうした後悔は年齢に関係なくあらゆる人が持ちうるものである。下は小学生から、上は定年で仕事を引退した人(あるいはもっと上の方も)まで、どんな若くても、またどんなに年を重ねても「あの時…」という感情を持たない、ということはない。

 後悔をもたらすものは、気付きである。予め目標を定めて、それに向けてわき目もふらず駆け抜け続けることだけで生きていけるほど、人間の想像力は豊かではない。想定できることなど、それまで生きてきた経験から導き出したほんの僅かなことでしかない。日々生活を営む中で、目標を決めた時には全く気付かなかったことに否応なく気付かされる。

 大切なのは、気付きを得た時にどう動くか、である。気付いた時、人は大なり小なりショックを受ける。早く始めなかったことを悔しがり、それを教えてくれなかった親を恨み、先生を恨み、友達を憎み、何よりそれまで気付かずに過ごしてきた自分を呪う。しかし、結果何もしない。何となく自分と折り合いのつく理由を考えだし、納得させ、またいつもの日常に戻る。これを繰り返しているうちに、いずれ気付くことすらなくなってしまう。そう、クリスマス・キャロルのスクルージ爺さんのように。

人の道さえ外さなければ、やってみて取り返しのつかないことなんてほとんどない。そして、多くの場合、やって失うものよりもやらないで得られないことの方が大きい。

 もし、「あの時やっておけば…」と思うことがあるなら、今からでもやるべきだ。「今」はすぐに「あの時」になる。

過去は消せない。が、未来を積み上げて行くのは全ての人に許された権利である。遅すぎることはない。人はいつでも新たなスタートが切れる。

まず、やってみよう。