2011年5月9日月曜日

「ホリエモン事件」の向こう側

休前、ホリエモンこと堀江貴文氏の実刑が決まった。彼を好きかということや彼がやったこと法律上の是非はともかく、少なくとも一時は起業家の先兵として時代の脚光を浴びた人だけに、同世代の人間として寂しさを感じる部分はある。

一方で、過剰なまでに彼を神格化する一部の人たちの姿勢や、「盾突いたものを排除するための旧勢力による陰謀に過ぎない」などといった短絡的な主張には強い違和感を覚える。

彼が買収しようとしたニッポン放送やフジサンケイグループ。新球団創設の際に強固に反対した既存球団のオーナーたち。多かれ少なかれ株主の意向に配慮しなければならず、しかも資金力のある人なら誰でも自分のオーナーになる可能性のある形態に、中立性を求められるマスコミが自ら進んでなったことには、素人考えでも疑問を抱く。また、彼らの報道が「正義」の名のもとの独善に見えることも少なくない。だから私は、彼が敵に回したとされるこうした勢力の肩を持つつもりはない。けれどもホリエモンの肩も持てない。

当時の彼が見誤った最大のポイントは、社会を作っているものは人間であるということだったのかもしれない。社会には私たち凡人の目から見てもなんとも不合理で不条理に見えることもある位だから、先人たちが築いたものが彼にはもっとバカバカしいことに見えただろう。しかし、どんな世界でも、その世界に生きてきた人たちには、自分がその世界を守り、築いてきた気概がある。それを顧みることなく、また顧みていたとしても尊重されたと感じることがなければ、いくら正論であったとしても人はその人の言うことに「Yes」と言いたくなくなる。残念ながら、ホリエモンは少なくとも敬意を払っていることを感じさせられなかったのだろう。これまでの体制や価値観に対する不遜とも言える態度が彼の足もとをすくった。

日本の金融の大変革期に微力ながらその変革の一端を担う立場にあった者として言えるのは、どんなに不合理に見えることであっても、それには必ず存在する合理的な理由がある、ということ。そして、その理由を腹の底から共有し、その背景に対する敬意なくして「改革」は進まない。そして「抵抗勢力」からも協力が得られて初めて、その改革は成ったと言える。

私はホリエモンのチャレンジ自体が否定されたとは思わない。むしろ、彼のチャレンジ精神は若者を初めとして多くの人に支持され、実刑判決が下ってもなお、彼はいまだにプラスの意味で社会的に大きな影響力を保っている。そしてこれからもきっと何らかの形で、新しい時代を創る作業に関わってくれると信じている。

俺たち洋々も、引き続きもっといい世界を創っていくことに貢献したい。そしてその時には「これまで」を作ってくれた先人への敬意を忘れずにいたい。もちろん、ホリエモンにも。

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