2009年11月17日火曜日

俺たちの「クリスマス・キャロル」

 「あの時もっと勉強しておけば…」「あの時もっと全力でぶつかっていたら…」「あの時告白していれば…」「もう少し若かったら留学したのに…」。こうした後悔をした経験は誰しもあるだろう。

 しかし、多くの人が気づいているように、こうした後悔は年齢に関係なくあらゆる人が持ちうるものである。下は小学生から、上は定年で仕事を引退した人(あるいはもっと上の方も)まで、どんな若くても、またどんなに年を重ねても「あの時…」という感情を持たない、ということはない。

 後悔をもたらすものは、気付きである。予め目標を定めて、それに向けてわき目もふらず駆け抜け続けることだけで生きていけるほど、人間の想像力は豊かではない。想定できることなど、それまで生きてきた経験から導き出したほんの僅かなことでしかない。日々生活を営む中で、目標を決めた時には全く気付かなかったことに否応なく気付かされる。

 大切なのは、気付きを得た時にどう動くか、である。気付いた時、人は大なり小なりショックを受ける。早く始めなかったことを悔しがり、それを教えてくれなかった親を恨み、先生を恨み、友達を憎み、何よりそれまで気付かずに過ごしてきた自分を呪う。しかし、結果何もしない。何となく自分と折り合いのつく理由を考えだし、納得させ、またいつもの日常に戻る。これを繰り返しているうちに、いずれ気付くことすらなくなってしまう。そう、クリスマス・キャロルのスクルージ爺さんのように。

人の道さえ外さなければ、やってみて取り返しのつかないことなんてほとんどない。そして、多くの場合、やって失うものよりもやらないで得られないことの方が大きい。

 もし、「あの時やっておけば…」と思うことがあるなら、今からでもやるべきだ。「今」はすぐに「あの時」になる。

過去は消せない。が、未来を積み上げて行くのは全ての人に許された権利である。遅すぎることはない。人はいつでも新たなスタートが切れる。

まず、やってみよう。

2009年7月2日木曜日

「エコポイント」の経済学

 麻生政権の2009年度予算案の一つ、エコポイント制度が導入されて1カ月余りが過ぎた。5月15日にスタートして以来、車の販売店や電気屋さんがにわかに活気づいたかのように見える。このエコポイント制度とは、簡単に言うと、エネルギー効率の良い車や家電を買った人に補助金を与える、というものである。

 しかし、素人目に見ても、このエコポイント制度、本来の趣旨とあっているの?という点が少なくない。電気効率のいいクーラーを買った人が、扇風機を買った人よりエコか。燃費のいい車を買った人が補助金をもらえて、車を買わずに公共交通機関を利用している人には何もないことに矛盾はないか。本当に「エコ」の推進を目的としているなら、別の方法があったかもしれない。

 一方、当然のことながら、このエコポイント制度には折からの不況に対する景気刺激策の意味合いも多分に含まれている。しかし、景気刺激のためであるなら、一律で減税を施したり、もしくは目的を絞らずに消費金額に応じた還付金を出すなど、別の方法のほうがよかったかもしれない。

 けれど、理屈どおりにいかないのが人間の世界でもある。いつまでもフラれた人への思いを断ち切れない。やってしまった失敗をくよくよ悩む。一時の激情に任せて過ちを犯す。経済も人間の営みである以上、一見合理的でない動きをすることも自然である。

 景気とは、経済活動全般の動向を指す言葉として使われるが、もともとは世の中の雰囲気の中に持て取れる景色、という言葉だった。要は、「世の中の人の気分はどうか」ということである。その意味で、「みんなが浮かれて、お金を使ってもいいか、という気持ちになる」という状態を作れたのであれば、意味のある政策だったのかもしれない。本来ならば、他の代替手段と比較して、もっとも効果のある施策がとられるべきではあるが、人の気持ちが何に反応するか、ということは実際のところ中々読み切れないのも事実。成果の検証には一定の時間を置く必要があるだろう。

 ブームに乗ること自体は悪いことではない。ブームは、それに乗ることで自分の考えを確かめる一つのきっかけにもなりうる。けれど、ブームに惑わされるのではなく、ブームを利用しながら自分なりのポリシーを固め、生活のスタイルを考える。これこそ、今、私たちがしなければならないことだろう。

2009年5月23日土曜日

好敵手(ライバル)

 フィギュアスケートのキムヨナ選手は「浅田真央選手がいなかったら今の自分はない」と色々なところで語っている。彼女たちは、お互いがお互いをライバルと認め、ここ数年のフィギュア界を引っ張り、年を重ねるごとにその芸術性、技術、を高めている。キムヨナ選手と浅田真央選手は最近の好例だが、良きライバルの存在は、モチベーションを高め、時には折れそうな心を奮い立たせてくれる。

 女子柔道の谷亮子選手もまた、素晴らしいライバルを持ち、そのライバルの存在によって自らを高め続けてきた人だ。谷亮子選手は中学2年で初めて出場した世界選手権で銀メダルを獲得して以来、オリンピックに5回出場(全てでメダル獲得)、世界選手権は6連覇、そして2006年まで毎年開催されていた福岡国際女子柔道選手権では11連覇という前人未到の記録を達成した。結婚、出産を経た今なお、20年近くにわたって世界のトップ選手の一人として活躍を続ける人である。一つの目標を達成した後、どんな一流のアスリートでも一定のクールダウン期間をとるものである。五輪平泳ぎで2種目を連覇した北島康介選手や、柔道65キロ以下級で五輪3連覇をした野村忠宏選手でさえ、五輪が終わると次の五輪を目指すかどうかは白紙、と言って1年位休養をとってきた。しかし、谷選手はいつでも次の目標を即座に答える。金メダルを取ったその日に次の目標を「オリンピックの連覇」「世界選手権の連覇」と答えていた。
 「多くの人は、世界の頂点に登りつめたら、ものすごい達成感のもとに容易に次の目標など見いだせないもの。実際、次の目標が見えずに、競技を引退する選手も多い。谷選手はなぜモチベーションを切らさずに、すぐに次の目標を設定できるのか」あるインタビューで、記者が聞いた。その時の谷選手の答えがこうだった。

 「私は、初めて畳にあがった小学校1年生の私にまだ勝てていない。肉体も技術も、その頃とは比べるまでもなく強くなっただろう。でも、『柔道と向き合う気持ち』は、まだその時を越えられていない。初めて試合をした時のひたむきな気持ち、無心さ、そして体の底から湧き上がった『楽しい』という感覚。小学校1年生の私を越えられた時、私は喜んで畳を降りる」

 「初心の自分」はもっとも手ごわいライバルである。一方で、行き詰まりを感じている時、自分を救ってくれるのもまた、「初心の自分」なのかもしれない。

 君にも好敵手はいるだろうか。良き好敵手を持とう。

2009年5月15日金曜日

君だけの「風林火山」

 「疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵(おか)し掠(かす)めること火の如く、動かざること山の如し」(孫子)

 昔の人の生きる知恵はすごい。冒頭の言葉は、武田信玄が好んで用いた有名な一節だが、先人たちは、これに限らず自分の拠り所を短い言葉に濃縮して、それを肌身離さずそばに置くことによって、自分の羅針盤としていた。それが座右の銘だ。

 歴史にもまれた古事、ことわざの中には素晴らしいものが多い。例えば、学びに関することだけでも山のようにある。

「学びて時にこれを習う。また説(よろこば)しからずや」(論語)
「少年老い易く学成り難し。一寸の光陰軽んずべからず」(作者不詳)
「少にして学べば、壮にして為すあり。壮にして学べば、老いて衰えず。老いて学べば、死して朽ちず」(佐藤一斎)

 偉人の言葉にも私たちの拠り所となる言葉が多い。

「俺は、昨日の俺ならず」(坂本龍馬)
「面白き ことも無き世を 面白く すみなすことは心なりけり」(高杉晋作)
「どんなに悔いても過去は変わらない。どれほど心配したところで未来もどうなるものでもない。いま、現在に最善を尽くすことである」(松下幸之助)

詩や映画や本、そして漫画にだって座右の銘になりうるものが沢山ある。

「唇には歌を、心には太陽を」(ツェーザル・フライシュレン)
「You’ll never find rainbows if you're looking down.」(チャーリーチャップリン「サーカス」)
「これでいいのだ」(バカボンのパパ、赤塚不二夫「天才バカボン」)

格言と呼ばれるものは、人間の心理を端的に表しているからこそ支持されている。インターネットがなかった時代、相場師たちの拠り所の一つは「相場格言」と呼ばれるものだった。この相場格言の中にも生き方に通じ、座右の銘にできそうな言葉が豊富にある。

「『もう』は『まだ』なり。『まだ』は『もう』なり」
「人のゆく裏に道あり花の山」
「夜明け前が一番暗い」

 座右の銘、は別に小難しい言葉である必要はない。身近なところでは、日本のポップスだって新旧問わず名言の宝庫だ。

「信じられぬと嘆くよりも 人を信じて傷つく方がいい」(海援隊)
「負けないこと、投げ出さないこと、逃げ出さないこと、信じ抜くこと。ダメになりそうな時、それが一番大事」(大事マンブラザーズバンド)
「負けたら終わりじゃなくて やめたら終わりなんだよね」(SEAMO)

もっと言うと、自分で作ったって良い。自分の美学、哲学を端的に表したものであればいいのだから。敬愛する前職の同僚の座右の銘を紹介しよう。これを聞いた時には思わずうなった。それ以来、私自身の座右の銘の一つでもある。

 「苦しい時には、高田純次を思い出せ」

 まさに至言である。

 君だけの座右の銘を持とう。

2009年5月9日土曜日

雲の上の景色

 飛行機の離陸5分後が好きだ。大雨の日に飛行機に乗ると、離陸後しばしの強い揺れの後、一瞬にして視界が開ける。大荒れの地上の天気とはうって変わって、それこそ雲ひとつない青空の中で、太陽との対話の時間がそこにはある。

 勉強、スポーツ、音楽、美術、仕事…どんな世界でも、それぞれの世界でそれぞれの高みに登った人だけが見える景色がある。今まで見えなかった太陽が現れる。しかし、雲を抜ける前に高度を下げてしまう人があとを絶たない。既に太陽を見た人からすれば、「あと少しで太陽を見られるのに」という気持ちになることも少なくないだろう。

 もちろん、こうしたことはなにも21世紀特有の現象ではない。しかし、転職するのが普通のこととなり生き方の選択肢が増えた今、昔ほど一ヶ所にしがみつこうとする人が減ったことは事実だ。これを「現代人は精神力が弱くなった」と片付けるのは簡単である。けれどもそうした側面が仮にあったとしても、精神論だけでは打ち手は見えない。

 最近の10代、20代の人たちを見ても、昔よりも精神力が弱くなったとは思わない。また不真面目になったとも思わない。むしろ10年前と比べて、自己研鑽に余念がなく、「無駄な時間」をいかに削れるか、ということに一生懸命な若手が増えた印象がある。時間をより大事に使おうとしている人や、自己の成長への渇望感を持つ人は10年前と比べても確実に多くなっている。私自身の周りにも一生懸命自分を磨こうとしている人が沢山いる。けれども、多くの人が「先が見えない不安」にさいなまれ、信じていた「太陽」の輝きすら色あせていく。そして太陽が見える前に別の道を選ぶ。

 多くの人が高度を下げてしまう理由は「この苦しみの向こう側に何があるのか」が見えないことにあると思う。入ってくる情報が多くなり、「絶対方程式」と捉えられてきたことがあちこちで崩れ去る様を目の当たりにして、自分は何を信じていいのか分からなくなっているのである。目的地が分からない行進ほど苦痛なものはない。

 これまでの「常識」が崩れつつある中、自分のやっていることに不安を覚えることは今後ますます多くなる。過去までの延長線上で捉えられなくなった「新世界」で、私たちは何をすべきだろう。

 その為にまずすべきなのは日々、世の中との対話力を磨くことだ。「新世界」では「自分の尺度」を作ることが不可欠だが、それが中長期的に見て世の中に必要とされているものでなければ意味がない。そして、もう一つは自分との約束を守ること。もちろん柔軟さは必要だ。けれど、自分が何を頑張るのか、ということを徹底的に考え抜き、進むべき方向を決めたら、ちょっとやそっとのことで一々ぶれてはならない。

 今見えている大荒れの天気に惑わされず、雲の上の景色をイメージしよう。私自身、今日も一足一足足元を固めていく。きらめく太陽と一対一で語り合えることを信じて。

2009年5月1日金曜日

宝探し

 宝物は全ての人の中にある―。

 これが私の信条であり、これを信じているからこそ、人生が楽しい。
何のために大学に行くのか、何のために就職するのか、何のために結婚するのか、何のために日々生きるのか。多くの人がその意味を深く考えることなく自分の進むべき道を決めている。意味など後から付いてくる―それもある意味正しいとも思う。
 人生とは、自分に出来ることを考え、周りの状況や制約条件を踏まえて、次にどのカードを切るかという意思決定の連続である。その意味で人生はゲームである。どんなゲームでも、まずは自分の手札で何ができるかを考えることが、ゲームを有利に進める上で最低限必要であるのと同じように、自分の中の宝物に気づくことは、人生というゲームをより有利に、より楽しくするための前提であると言える。
洋々に参画するまでは世界的な経営コンサルティング会社で12年近く、コンサルタントとして日本を代表する様々会社の経営陣や従業員とともに仕事をしてきた。そこで学んだのは、答えは全て会社の中にあるということ。誤解をしている人も多いが、コンサルタントは目からウロコが落ちるような、斬新なアイディアに基く解決策を教えてくれる「魔法使い」では決してない。その会社で働く人と徹底的に対話し、問題の本質を明らかにし、その問題に対して最も効果があると思われる解決策を提示し、それを企業のコンセンサスとして確立する。このプロセスこそがコンサルティングであり、相手を理解せずに、誰にでも効く特効薬を処方することは、コンサルタントの仕事ではない。問題の本質も打ち手もそのほとんどはその企業の誰かしらが気づいていたり知っていたりするものだ。しかし、それが共通知になっていなかったり、会社としての優先順位が明確でなかったりすることで、多くの企業で有効な打ち手が取れずにいるのである。コンサルティングの本質は、「企業に眠る宝探しのお手伝い」だと思っている。

 今、日本中の様々な組織で似たような状況がある。企業、学校などの公的な組織だけでなく、家庭、部活動、趣味のサークル…。自分の、自分たちの中にある宝物に気づかなかったり、気づいていてもそれに目を向けていなかったり、優先順位が低かったり。どんな人にもどんな組織にも宝物はある。全ての人が自分の中の宝物に気付き、それを掘り出せたら今よりももっと日々を楽しく過ごせるに違いない。私たちは少しでもその手伝いができたらと思っている。全ての人が大志を抱き人生を謳歌出来るように。

2009年4月15日水曜日

成長の尺度

 いかに成長すべきか―

 この問いは人類に課された永遠の課題ともいえる。有史以前に人類が誕生してから絶えず、「今よりもいい状態にする」ための工夫を積み重ねて、2009年の今がある。はたから見れば、恵まれた境遇とはいえず、才能にも恵まれてもいないように見えても、輝いている人がいる。一方、金銭的には何不自由ないはずの人、一つの分野で類稀なる才能に恵まれている人、あるいは見た目もカッコよく多様な才能を持ち合わせている人が、決して幸せそうに見えないこと、は枚挙に暇がない。 この差はおそらく自分はどんな方向に成長していくのか、ということが見えているか否かの差にあると思う。

 成長の尺度を自分で決める。こんな当たり前のことが先行き不透明な21世紀では、ますます問われる。なぜなら、社会で評価される尺度は目まぐるしく変わってしまうからだ。未来は過去の延長線上にあるものではなくなり、よく言われる「不連続の時代」に入った。
 日本でも1990年代初頭にバブルが弾けて以降、信用ある会社の代名詞であった金融機関は次々と姿を消した。金融機関だけでなく、メーカーや小売業を含めて名だたる大企業がいくつも姿を消した。また、史上最高益を更新したことを発表した企業が数か月後に倒産する。それまでは信用の証であった「上場」や「業歴」「決算」といったものが、それだけでは信用の証とならなくなったのである。同じようなことは世界中に起こっている。
 こうした時に大切になるのは、過去の実績ではなく、今直面している世の中を自分なりに分析をし、未来の青写真を自分なりに定義することである。

 親に言われたから、みんなが行くから、周りから褒められるから、高校や大学に進学する、「いい企業」に入る、将来食いっぱぐれの無いように資格を取得する。こうしたこと自体が悪いわけではない。だが、重要なのは動機である。「何のために」という自分の尺度を持って自分の行動を決める。言うまでもなく、その結果は誰も責任を取ってくれない。あくまでも自己責任である。けれども、周りの尺度を鵜呑みにしたとしても、その結果は誰も保証してくれるものではない。しかもそれがうまくいく確率は、今後下がる一途をたどっていくことになろう。

 人から与えられた「出来合いの尺度」を追求することは、過去の延長線上に未来を位置づけることと同じである。そしてその考え方では21世紀を楽しく過ごすことはできない。不連続な成長ステージに入った今、自分の価値観を持ち、自分が追求すべき尺度を確立することが大切である。

2009年4月1日水曜日

人生は積分(微分ではない)

 少にして学べば、壮にして為すあり。
 壮にして学べば、老いて衰えず。
 老いて学べば、死して朽ちず。(佐藤一斎『言志四録』)

 昨今、サブプライムローンに端を発する金融危機の影響で不景気だと騒がれているが、教育業界は元気がいい。

 東京都の中学受験率は70%を超えたと言われる。大学全入時代到来と騒がれながらも、国公立やトップ私大における競争は激化の一途をたどっている。「社会に出る前のモラトリアム」と揶揄された大学でも、入学当初から就職活動を念頭に置き、留学をしたり、企業のインターンに参加したり、資格取得に向けた勉強をする学生も多く、ただ遊んでただ飲むだけというこれまでの「大学生」のイメージも覆されつつある。また、社会人も、自分自身のスキルアップに余念がなく、資格取得をサポートする専門学校も隆盛を極めている。こうした動きを受け、大学側も、ここ数年でビジネススクールやロースクールを相次いで開校し、社会人にターゲットを絞ったカリキュラムを強化しているところが多い。
 このように、多くの人が自分の意思で「学ぶ」ことに取り組み始めたことは悪いことではない。冒頭の言葉を待たずとも、学ぶことは人間が豊かに活きるための根源だからだ。

 しかし、瞬間風速を高めることには余念がなくとも、死ぬまでに自分が出せる価値を最大化する、という観点で学んでいる人は多くないように見える。そして、学びのベクトルも、自らの幸せのためと言うよりも、世の中の評価を高めるため、に見えることが多い。 ある特定の分野に関する知識やスキルを、短期間で習得しようとするその姿勢は「微分的学び」と言ってもいい。

 学ぶには自分を知ることが不可欠である。病気にならない体を作りたい人が、プロのスポーツ選手と同じトレーニングを始めても体を壊すだけである。目標を定め、今の自分の力量を知り、その上で自分に合った向上策を考えていく。この姿勢なき学びは、自分の豊かさにつながらない。

 ライブドアや昨今破綻あるいは危機に陥っている投資銀行。いずれも、時代の寵児とはやされ、世の中の最先端を走る人たちの代名詞のような扱いを受けていた時期もあった。しかしながら、「利益」や「成長率」という単純な指標の最大化のみに邁進し、彼らは自分たちが目指す方向を見誤った。また、ある意味社会情勢を「楽観的」に捉えるあまり、自分たちのすべきことも見誤った。
 世の中からの評価ではなく自らの幸せのために、人との比較ではなく自分の尺度で、強迫観念ではなく自分のペースで学び続ける。こうした「積分的学び」こそが人生を豊かにするためのものである。

 老いても学び続けるために。人生は微分でなく、積分である。